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【1】古代以前
自然崇拝の山 権現岳山頂はハイマツが山頂にまで迫り、巨石が突出する景観である。磐座信仰による巨石は神が降臨する御神体であり、神々を祀るのに相応しい風格を備えた聖地である。 頂上の二股状の巨石を麓から仰ぎ見みることができ、豊穣を祈る信仰の山であった。それは、古くから誰でもが狩猟・採集のために自由に往来し、神々と交流し、麓と一体となった日常生活圏の里山であった。今に残るこうした権現岳頂上とその南麓の自然環境は、縄文時代に遡る信仰や生活の匂いを伝えてくれている。 権現岳頂上(執筆者撮影) 権現岳と赤岳の違いは、標高の高さの違いにあるのではない。赤岳と異なるのは、権現岳には聖なる巨石が山頂に存在することである。 やがて、この場所こそ「八ヶ岳」誕生の地となるのである。
2025年12月31日読了時間: 1分


【2】奈良・平安時代
檜峰神社の創建 二股状に裂かれたV字形の巨石の姿から二神に分化して神格化される。自然崇拝された神に神格の名称が付与される。 「八岳の嶺八裂て屏しき聳たるは石長姫命の醜容に肖たり」(甲斐叢記)と見られる。 盤石な巨石は、永遠の生命を保証する磐長姫命の姿と見られている。 檜峰神社の石祠 (執筆者撮影) 巨石の二股の原因が落雷により裂かれたと見ると、「雷」を連想し八雷神が祭神として命名される。八雷神は、火の神であるカグツチ命が死に至らしめたイザナミ命の黄泉の国での死体から生まれた神である。また二股の巨石は、カグツチ命がイザナギ命によって剣で首を切り裂かれた姿とも見られる。 八雷神の命名は、火に関わる落雷や火の神カグツチ命などに影響されている。そのことから、火を起こす意味に由来する「檜」の字を用いて神社の名称を「檜峰」としたのである。 このように火に関わる檜峰神社の祭神である八雷神は、巨石の形状に相応しい神々を『記紀』神話の中から選び取られている。 二神は、権現岳頂上の東側の巨石の下に置かれた石祠の檜峰神社に祀られている。こ
2025年12月31日読了時間: 2分


【3】鎌倉・室町時代
一つの八ヶ岳の誕生 鎌倉・室町時代に本地垂迹の思想が生まれ、神々は、インドの仏菩薩(本地)が化身として日本の地に現れた権現(垂迹)であるとする考えである。 笛吹市御坂町の「檜峰神社」は薬王権現と称し、八ヶ岳の「檜峰神社」は薬師権現と称する。本地仏は同じで薬師如来であり、「権現」の名称が付される。この薬師権現の「権現」が、現在の「権現岳」の山名となる。 本地垂迹の思想により、平安時代の檜峰の山名は、鎌倉・室町時代に権現岳に変わっていく。薬師権現が八ヶ岳権現と別称されるようにもなる。この時、「八ヶ岳」の山名が誕生する。 八ヶ岳権現は八雷神の本地仏であり、八雷神を祀る権現岳の名称を「八ヶ岳」としたもの で、一つの山の名称である。八ヶ岳権現の「八」は、八雷神の「八」に由来であることが分かる。八雷神を祀る権現岳こそが「八ヶ岳」であり、それ以外は八ヶ岳ではない。 『信濃国立科山略伝記』には、「立科の東南にならいたてり 八柱の雷公神嶺々に鎮座する」とある。この地誌観は、立科山は八ヶ岳に含まれない、外からの認識である。八柱の雷が嶺々に鎮座する「嶺々」は
2025年12月31日読了時間: 5分


【4】江戸時代の八ヶ岳
(1)甲斐國の八ヶ岳 一つの八ヶ岳の継続 八ヶ岳について、『甲斐叢記』(巻之七)(抜粋)に次のようにある。 檜峰権現岳トモ云、小岳、三頭岳、赤岳、箕蒙岳、毛無岳、風三郎岳、編笠岳等八稜ニ分ルゝユエニ此名アリ 檜岳ニハ石長姫八雷神ヲ配祀シ八ヶ岳権現ト云ウ 「檜峰権現岳トモ云」とあることから、檜峰が権現岳である。権現とは八ヶ岳権現であり、檜峰が八ヶ岳である。檜峰=権現岳=八ヶ岳は一体のものである。赤岳は毛無岳のことでもあり、八つの山の選定は不確定なものであるが、山名は八つの山が列記されている。 甲斐国の『甲斐叢記』の八ヶ岳で説明されるように、江戸時代において、甲斐国側では権現岳を中心に赤岳、硫黄岳(箕蒙岳)までも含む範囲が八ヶ岳であるとされている。 赤岳は、権現を中心とする「一つの八ヶ岳」に包摂されている。こうした地誌観は、すでに中世以来甲斐国と信州側が共通に持っていた八ヶ岳の姿である。その姿には、諏訪側も甲斐国側も八つの峰を以って「八ヶ岳」とする共通の山岳観が見られる。 『甲斐叢記』(巻之七)に次のようにある。 麓の諸村より三里余秋分の頃まで
2025年12月31日読了時間: 7分


【5】明治時代の八ヶ岳
権現岳の「一つの八ヶ岳」 『信濃地理』「信濃國全図」(明治29年) 長野県側において、江戸時代を通じて作成された『信濃絵図』の「二つの八ヶ岳」の記載は、「ひとつの八ヶ岳」に表記されることになる。 『長野県編纂 信濃國地誌略上巻』(明治十三年)に、次のように「赤岳」と「八ヶ岳」は、別々の山として説明されている。 八ヶ嶽ハ本郷境ノ両村面起シ、山脈西ハ大門嶺及ビ蓼科山ニ連亘シ、東ハ金峰山ニ接シ、攅峰八起ス、因テ此称アリ赤嶽山ハ玉川村ニ面起シ、阿弥陀嶽ノ背ニ峙チ、山脈南ニ八ヶ嶽」ニ連ナリ、北ハ蓼科山ニ走ル、(以下略) 明治時代の長野県の地理の教科書である『信濃国地誌略』の絵図には、赤岳の「八ヶ岳」は消失して、「赤岳」とだけ表記し、権現岳に「八ヶ岳」と表記している。 「八ヶ嶽」の記載の地図 (明治20年の「陸地測量部」) 「赤岳」と「八ヶ岳」は、別々の独立した山として説明されている。長野県側において、江戸時代を通じて作成された『信濃絵図』の「二つの八ヶ岳」とは異なる認識に立っている。 明治20年「大日本帝国陸地測量部」作成の『甲府』の地図の「
2025年12月31日読了時間: 1分


【6】大正時代以降の八ヶ岳
赤岳付近の「八ヶ岳」 明治時代に入ると、赤岳の「八ヶ岳」の記載は消え、赤岳と八ヶ岳は併記されるようになる。しかし、大正5年『大日本帝国陸地測量部』(縮尺二十万分一)では、赤岳の「八ヶ岳」付近に記載されている。現在の『国土地理院』の地図も同様である。 明治時代から大正期に入ると、「八ヶ岳」の中心が権現岳より赤岳に移っていく。八ヶ岳の地名の広域化が図られ、その中心に八ヶ岳の主峰「赤岳」を置く地誌観に基づくものと見られる。権現岳の「八ヶ岳」から赤岳の「八ヶ岳」に表記が変更されている。 赤岳付近の「八ヶ岳」 犬養毅と八ヶ岳 犬養毅は富士見町に深い機縁を持つ。大正13年富士見町に「白林山荘」と建てる。大正14年8月30日に乙事山岳会の案内で小川平吉と共に、「盃流し」に登る。犬飼は、「盃流し」の景観に酔いしれた。平安時代の貴族によって行われた盃を流す「曲水」の宴が存在した場所、あるいは存在したような場所とイメージをした。犬飼は、その存在の証に「曲水」、犬飼に共鳴した小川平吉は「神仙秘境」と石
2025年12月31日読了時間: 2分


【7】昭和時代の八ヶ岳
多数の山々の「八ヶ岳」 昭和10年頃まで八ヶ岳の10ヶ所ほどの山頂に中野区の地恩報恩会講が法華経の写経の納経をしたという。その一つを三ツ頭岳で小淵沢町の故宮沢源治氏が発見した昭和3年の納経箱が井尻考古館に所蔵されている。西天狗・峰の松・硫黄岳・阿弥陀岳・西岳などに題目塔が見られる。納経場所に題目塔を建てたのであろう。その様子を八ヶ岳納経登山記念写真集帳(三分の一湧水館蔵)が伝えている。 法華経の納経や題目塔の建立が行われたのは、「普賢菩薩発品」にある、『法華経』を書写する人は忉利天への往生も説く教えからである。忉利天は六欲天の第二にあり、須弥山の頂に位置し、閻浮提 の上にある天界で、中央の喜見城に帝釈天が住み、四方の峰に八天があるので、三十三天ともいう。 権現岳(忉利)、三ツ頭(刀利大権現・谷戸講中)、地蔵の頭(赤岳山忉利天宮・中道村講中)、阿弥陀岳(忉利・明治27年)などの忉利天の石碑があり、カッコ内はその刻銘である。赤岳・権現岳の山麓一帯に、八ヶ岳全体を須弥山に例えた忉利天信仰が浸透していた。 昭和3年納経の木札(井戸尻考古館蔵) 三ツ
2025年12月31日読了時間: 2分
【8】まとめ
八ヶ岳の山名は、八雷神の八ヶ岳、権現岳の八ヶ岳、そして赤岳の八ヶ岳へと変節を繰り返す歴史をたどってきた不思議な山である。全国でもこうした類例はない。 権現岳・檜峰・薬師岳・風三郎岳の名称は、同一の山塊に集約された山名であり、個々の信仰的特徴やその内容に応じて呼称されてきた。明治11年6月「大平山五ヶ村入会図」で権現岳南斜面に「字八ヶ嶽」の地名がある。地名として史料の中に見える唯一の存在である。 いくつもの名称と共に、「字八ヶ嶽」の地名は八ヶ岳西南麓の歴史・文化・信仰などを伝える八ヶ岳の原郷である。 八の峰が存在することによって、「八ヶ岳」が命名されたという。命名される前に「八ヶ岳」は、檜峰神社の本地仏として、薬師権現の別称として「八ヶ岳権現」として呼称されている。この命名以前に、八の峰があって「八ヶ岳」と名称があったというのだろうか。 「八百万神」の説も、「八ヶ岳権現」の名称以前に多数の山々の認識があって命名されたというのだろうか。 参考文献 水原康道 一九八三年、『小淵沢町誌下巻』「第五章 八ヶ岳信仰」、小淵沢町発行
2025年12月31日読了時間: 1分
【1】こだわりの八ヶ岳
八ヶ岳南麓という地域。 私にとって60年余り聞き慣れた親しみのある言葉である。 この「八ヶ岳南麓」という語感の響きが気持ちいい。 そこに住む私のアイデンティの立ち位置があり、どことなく安心感を持つことができるからである。それは、八ヶ岳南麓という限られた地域と八ヶ岳の山々との一体となった自然の姿が与えてくれたものであり、八ヶ岳南麓から仰ぎ見る山々に秘められている神秘的な信仰の世界によって培われたものであろう。 その山々には、赤岳は含まれない。八ヶ岳南麓は、赤岳が見えない地域だからである。つまり、赤岳を除く権現岳を中心とする峰々が本来の八ヶ岳の姿である。権現岳より南に流れ下り裾野が広がる南麓から見る「赤岳の見えない八ヶ岳」こそ、ふるさとの山である。遠い昔、南麓に定住した人々が描いていた八ヶ岳の最初の原風景である。ここには、赤岳を主峰とする現在の八ヶ岳の姿はない。 権現岳の頂上は、這(はい)松(まつ)がせり上がり、二つに裂かれた巨石がある。この巨石が八ヶ岳の御神体である。こうした山頂の景観のある権現岳こそ八ヶ岳の中心であり、八ヶ岳の神々が降臨するに相応
2024年7月17日読了時間: 2分
【1】「1」の民俗について〜はじめに〜
「1」の読みかたは、「イチ」は呉音、「イツ」は漢音、「ヒトツ」は日本読みである。 「1」の言葉の使い方は、通常数える「1,2,3」の数字の「1」だと思われていことが多い。 しかし、日常使っている「1」には、数えられない「イチ」、数字ではない「イチ」、数に入らない「イチ」があることが、余り意識されずに使われている。 「1」はそれだけで完結し、2へと続かない意味に使われている。 これより、こうした意味で「1」が使われている事例について民俗文化的意味を考える。
2024年7月17日読了時間: 1分
【2】挨拶としての「1」
来客に対して食事の接待をする時に、「おひとつ、どうぞお召し上がり下さい」と挨拶をする。お客さんの人数にかかわらず、順番にすべての人に「おひとつどうぞ」と言う。 来客は来訪神である。歓迎される福の神として扱われる。手土産を持参して訪問するのが礼儀とされるには、その理由からである。また返礼として客人に持たせて、来訪神を送り返すのである。正月や盆行事での神仏の去来信仰と同じ原理である。客人の家の出入りは、あの世とこの世を往来する結界儀礼である。「おひとつどうぞ」とは、客人を神として接待するあの世的文化のもてなしである。 そして、「おかわりどうぞ」と必ず食事のお替りを促すのが礼儀である。それは、死者儀礼の一膳飯を忌み嫌うからである。枕飯に一本の箸が立てられることから、食事の時にご飯に箸を刺すことは嫌われる。神の接待から人としての接待へと変わり、この世的文化のしきたりとなる。ご飯を盛り付ける時も、一回でなく二回にして行う。お茶を注ぐ時も同様に、一度で注がず、二度に分けて注ぐである。 家の外は神の原理、あの世的文化である。家は人の原理、この世的文化である。.
2024年7月16日読了時間: 3分


【3】神木としての「1」
天然記念物指定の桜は、一本の古木の大木である。山の裾野、峠、田畑のはずれた場所などに見られる。北杜市武川町の神代桜(国指定天然記念物)、同じく小淵沢町の神田桜(県指定の天然記念物)、韮崎市の鰐塚の桜(市指定天然記念物)などがある。 北杜市・神田の大糸ザクラ(北杜市教育委員会提供) 古くは、桜は山に咲く花であった。春に一斉に咲き出す姿は神の降臨を示し、一年の始まりを告げるものであった。古代、春の祭りの歌垣は、豊穣を祈る農耕儀礼で韮崎市わに塚の桜あった。『常陸国風土記』(筑波郡)には、「坂より東の諸国の男女、春の花の開くる時、秋の葉の黄づる節、相携ひつらなり、飲食をもちきて、騎にも歩にも登り、楽しみ遊ぶ」と、歌垣の様子の記述がある。桜の木の下で宴会をしながら花見をする行事は、その名残を今に伝えている。笠のように満開の桜の花に覆われた桜の下は、花の呪力によって豊穣と疫病退散の加護を受ける所である。やすらい花の祭りは花笠の下に入る祭りで、花の呪力によって疫病を封じ込めるのである。 桜の大木は、屋敷に見ることはできない。忌み嫌われたのである。寺の境内に植え
2024年7月15日読了時間: 3分
【4】「ヒトツモノ」としての「1」
一般に一つ物、一ツ物などと表記され、文献史料では一物、一者とも表記される。日本書記は、「時に、天地の中に一物生れり。状葦牙の如し。」とあり、天地開闢に芽生えた葦牙である原初の植物を「一物」とも書く。「モノ」は、腹に「一物(いちもつ)」を持っていると言う時の「モノ」、また「物の怪」の「モノ」と同じである。「物部」「大物主神」の「物」とも同じ。眼に見えない隠れた存在、霊的な力を示す神的な存在を表す。「ヒトツ」は数える「一」でなく、全体を表す意味である。 社寺の祭礼・法会などで行われる神事・行事の中で、稚児などの扮装した人あるいは人形がヒトツモノと呼ばれる。 ヒトツモノという名称は、一番目立つという意味で風流であるとの説がある。山鳥の尾羽や紙垂(しで)をつけた笠を被り、化粧をした稚児が神幸行列において馬上に乗る。風流と見られる装飾や化粧は、神の荘厳・威厳さを表現されたものである。俗世間とは異なる異界の装束である。 あるいは神霊が憑依する依坐やその名残であるという説がある。神の乗り物の馬上は神の降臨の聖域である。祭りの渡御の行列の中で馬上に乗る依坐もヒト
2024年7月14日読了時間: 2分
【5】昼・夜を数える「1」
昼と夜を独立した一つとして数える。 『古事記』」の神代巻に天若日子の死を「日八日夜八夜」弔うとある。『日本書記』、酒折宮の問答歌において、「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる 日々並べて 夜には九夜 日には十日を」の問答歌がある。古代において、昼・夜を別々に数えていたことが分かる。さらに、アイヌ叙事詩ユーカラの中には、「日三日 夜三夜 併せて 六日」という記載が見られる。(アイヌ叙事詩ユーカラ集 P116、117)。 民話の中において、鬼は朝一番の鶏の鳴き声で、残り一段の仕事を残しても仕事を止め退出しなければならない。その瞬間において時間は止まり切断される。鬼は昼の時間に移行することは出来ない。夜と昼は異質な存在で、その間には越え難い断絶がある。昼と夜とが円滑に交替する意識はない。夜は神の時間、昼は人間の時間である。昼・夜の境界は厳然と区分される。 平安時代『三代実録』において、元慶元年四月の条に、「一日一夜。合為一日」とあり、昼・夜合わせて一日とする。「このような異質な両世界の交替を時計の振り子のごとく振動的な振幅としてとらえる、そういう時間意識
2024年7月13日読了時間: 3分
【6】忌避される「1」
一膳飯は嫌われ、おかわりを勧めることは、挨拶の「1」のところで記述した。この「1」は、「おひとつどうぞ」の来訪神として客人に対する接待のもてなしのことである。 初めて来店した客を断ることを、「一見さんお断り」という。一回目の客人は信用が無いからという理由で、常連客の紹介者が必要であると説明されることが多い。財布は帳場に預けるため支払いは確保されるので安全で、必ずしも同伴者は必要ではない。一回目の客は、店側は来訪神のため接待する立場であり、支払いされない時は受忍せざるを得ないことになる。縁起を担ぐ店側の方便として、「一見さんお断り」という口碑が生まれたのであろう。 年賀状には令和5年1月1日とは書かず、令和5年元旦と書くのが通例である。なぜ回避されるのか。1月1日は正月の神をお籠りする。1日は神の支配領域の時間帯である。神の怒りを受けない慎みのある生活をしなければならない。掃除や料理をしない。そのためのお節料理である。外出はできなかったので、一日の初詣の行事はなかった。 神は一年の始まりの一日だけ、人の一年の始まりは二日から日常生活が始まる。初売り
2024年7月12日読了時間: 2分


【7】除外される「1」
「犬追物」は、文献上の初見は1207年(『明月記』承元元年)、中世武士の武芸鍛練法の一つで、 騎馬で犬を追射する競技である。竹垣で囲んだ馬場に犬を放ち、これを馬上より射る。犬追物の競技で、競技前に一匹の犬を逃がす作法がある。最初の一匹は、「1」という神の領域であるため競技の対象から除外する。 犬追物図屏風 紙本着色六曲一隻(福井県・勝山城博物館所蔵) 人間の領域から神の領域を侵害しないのがルールなのである。人間の競技の世界が神の領域に及ばないように、神聖な「1」の部分を護るのである。「1」の世界と「2」からの世界は、厳格に裁断される。 「競技かるた」である百人一首を用いた競技は、明治時代以前から行われていた。明治37年(1904年)ジャーナリストの黒岩涙香によってルールの統一が図られた。最初の読み札は空札である。競技かるたでは、試合の始めに、競技用の百人一首でない歌を詠み、試合開始の合図とする。これを「序歌」と言う。文学博士で歌人でもある佐佐木信綱氏が、この『難波津に 咲くや木の花 冬ごもり 今は春べと 咲くや木の花』の歌を序歌として選定した。最
2024年7月11日読了時間: 2分
【8】中心線としての「1」
奈良時代の古代寺院、飛鳥寺や四天王寺などの中門,塔,金堂,講堂が一直線上に並ぶ。その中の塔は、中門との直前に置かれ、最重要の位置に置かれる。塔は仏舎利が置かれる位置で、塔の建立とは寺院創建という最重要の意味を持つ。その後、塔を中心としてその東・北・西に金堂を配置された。左右対称の寺院配置を二分割する中心線上に置かれている。 時代が下るにつれ,塔の位置が中心から遠ざかり、法隆寺の配置では中門の左右後方に塔と金堂がある。薬師寺では中門の左右に二基の塔が置かれる。さらに門の外に配置されようになる。寺院建立における一直線上に置く塔の特権は奪われ、伽藍の飾り配置になった。 東大寺など寺院の参道に中央線上に灯篭・香炉・真燭を置かれることがある。仏に向い合う直線は、聖なるラインだからである。焼香礼拝する時に導師に会釈するのは、導師が仏と向き合う直線上に踏み込むことが忌避されるからで、礼拝は直線上から少し横に避けて行うしきたりがある。本尊からの直線のラインを横切る時は、会釈して渡るしきたりがある。聖なるラインを踏まないためである。 墓地おいて、石塔は入り口(門
2024年7月10日読了時間: 4分
【9】完成としての「1」
署名のない作品が見られることがある。署名は作品を棄損する。完成された作品である自負から、作者が誰であるかが分かるはずであると、署名を不要とした。破壊されない完全な意味での「1」である。作品の棄損を最小限にして、芸術性を確保するために「隠し落款」をする。 悟りの世界を象徴する満月は、完成した「1」の意味である。 竜安寺(京都)の十五箇の石を配置した石庭である。この意味について多様な説がある。十五の数は満月の悟りを象徴すると考える。縁側で見る位置で十四個の石が見える。一つが欠ける。縁側から十五の石が見える場所が一カ所ある。竜安寺の石庭は特定の場所から見るのではなく、縁側を歩きながら動的視点で見るものである。十五の世界と十四の世界を見ることになる。欠損の「1」を隠しながら、同時に隠された完成の「1」の存在を暗示する。十四+一=十五である。悟りの世界のあり方の禅の公案を示す。静止して黙思するのではなく、動的に沈思する坐禅の場である。 一味同心・茶禅一味は、一つの茶碗で同じ味の茶を飲み交わし、その茶会の参加者は同じ心を共有し、平等性を表現する。一党・一揆
2024年7月9日読了時間: 2分
【10】破壊される「1」
一年は一回限りで、年月は一回ごとに積み重ねられていく。2年、3年と数えるが、年が二個、三個と増えるのではない。「1」が積み上げられるだけである。年齢も同じである。連続としての「1」の意味である。1年は一回で完結し、次年度とは断絶する。去年と今年は旧年と新年と区別され、別の年である。 一年一回限りの儀礼的なものは来年度に引き継がれない。お札や御守り、正月の縁起物など、一年限りのものはお焚き上げをされる。 儀礼は一回限りで終了する。祭祀儀礼の祭具も一回限りの使用で、終わって破却される。 新たに神を迎えるために一回ごとに取り替えられ、再利用されることはない。 白木の位牌は葬式のみに使用されるもので、四十九日には塗りの位牌に切り替えられる。白木の祭壇や祭具、あるいは祭場を白の布で覆い、さらに葬式に際し床の間、神棚、写真に白い紙を貼ることは、一回限りの葬祭場として使用することを示す。 即位儀礼の大嘗宮の式場建物、産小屋など、使用後は焼却・破却されてきたのも同じ理由からである。地鎮祭は式が終われば片付けられ平地となる。 破却・焼却は、祭場を解体し始末する行為
2024年7月8日読了時間: 2分
【11】二回としての「1」
二回の行事を一回分として見なす。こうした事例を民俗行事に見ることができる。 修正会・修二会は正月行事を二度行う。十五夜と十三夜の月見は二度見て願いがかなうという。正月とお盆の二度の行事、晦日(6月)と大晦日(12月)の二回の大祓の行事を行う。一年を二分するように、同じ行事を二度繰り返して一年の行事が完了する。つまり二回して始めて「1」回分としての儀礼的価値を有する。 大宝令(701年)、大祓が六月と十二月の晦日に決められる。平安時代『三代実録』においては、元慶元年四月の条に、「一日一夜。合為一日」とある。昼と夜の二回を、昼・夜合わせて一日と定める。 一日、一年を二分する対の構図が見られるように、左右対称など二つの事項を統合して、二回を合わせて「1」とする価値観を重視するようになった。それは、日本古来の二分する思考の上に、中国からの暦・易の根源的意味の「太一」に統合されたものである。律令制の左大臣、右大臣の上位に太政大臣が置かれたのと同様である。 正月と盆は、1年に2度営まれた先祖供養の行事であった(正月は魂祭りと称し、先祖を祀る行事であった)。
2024年7月7日読了時間: 2分
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