「犬追物」は、文献上の初見は1207年(『明月記』承元元年)、中世武士の武芸鍛練法の一つで、 騎馬で犬を追射する競技である。竹垣で囲んだ馬場に犬を放ち、これを馬上より射る。犬追物の競技で、競技前に一匹の犬を逃がす作法がある。最初の一匹は、「1」という神の領域であるため競技の対象から除外する。人間の領域から神の領域を侵害しないのがルールなのである。人間の競技の世界が神の領域に及ばないように、神聖な「1」の部分を護るのである。「1」の世界と「2」からの世界は、厳格に裁断される。
「競技かるた」である百人一首を用いた競技は、明治時代以前から行われていた。明治37年(1904年)ジャーナリストの黒岩涙香によってルールの統一が図られた。最初の読み札は空札である。競技かるたでは、試合の始めに、競技用の百人一首でない歌を詠み、試合開始の合図とする。これを「序歌」と言う。文学博士で歌人でもある佐佐木信綱氏が、この『難波津に 咲くや木の花 冬ごもり 今は春べと 咲くや木の花』の歌を序歌として選定した。最初の一句(序歌)は一句目を除外して、二句目から競技が始まる。犬追物と同じように「1」に対し神聖視する古来からの伝統を踏襲したように見られる。
易占において筮竹(ぜいちく)は、50本の筮が使われる。占いに用いるときは「1」を太極に象(かたど)り、49を用いる。50本の筮竹の中から1本(真勢流では2本)を取り、筮筒に立てるか、横に置いておく。この1本は太極を表すが、宇宙からの回答を受信するアンテナのような役割と解釈する者もいる。
『易経』繋辞伝上に、「易に太極有り、是れ両儀を生ず、両儀四象を生じ、四象八卦を生ず」とある。太極は、陰・陽の二気に分化する以前の宇宙万物の生成の「究極の根源」である。とすれば、太極は万物を統括し、人の運命をつかさどるのであれば、その象徴する一本を除外するのは不自然である。易の論理による除外でない。筮竹の一本を除外して占うのは、「1」と言う神聖な太極が、人間の領域に関わることを禁じたのである。最初の「1」の部分は占いに使うことはできず、二本目以降のものによって占いをする。犬追物の一匹を逃がし、二匹目から競技をするのと同じ論理である。
なぜ、野球の始球式において選手以外の人がするのか。芸能人・タレントなどの出演によって、一球の「ショウタイム」を演じる。始球式の「1」の儀式が終わると、二球目から試合が開始される。主催者側にこの認識がなくても、「1」を除外する論理が見られる。
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