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【16】 悟りとしての「1」

ブッダの悟りとしての一回性についてである。

ブッダは35歳の時、インド東部のビハール州にあるブッダガヤの菩提樹のもとで禅定に入って悟りを開いた。仏典によれば、自分一人だけの唯一絶対の悟りを内面に秘めたままにしておくことを望んだ。梵天はブッタ一人の悟りに終わらせることが忍び難く、衆生済度のためからの悟りの布教を依頼するが、再三に渡り断られる。それでも梵天は仏法を説くことを三度懇願する。ブッダはこれを受け容れ布教することになる。最初の説法(初転法輪)は、鹿野苑で五人の修行者に対し仏法を説き、80歳で亡くなるまで人びとの苦しみを救うために慈悲を与え続けきた。

ブッタの悟りは、一回限りの体験である。一回性という神秘的な直観の瞑想体験である。歴史的事実として一回性の意味である。ブッタは同じ神秘的体験によって、再び悟ることはない。また同じ悟りの体験を弟子に求めることはない。仮に悟りを求めるならば、それは悟りの疑似体験であり、ブッタの原体験と異なる。

ブッタは、この非論理的体験を論理的な言葉に置き換えて慈悲の教えを説くことになる。非言語の悟りから言語による悟りへと転換である。ブッタの不可分の内的世界が二極に乖離する。釈尊は自己の悟りを彼岸に残して、非言語の世界から、此岸の言語の世界に渡ることになる。言葉なき悟りを放棄し、言葉の悟りを選択したことになる。

このことにより、この二つの悟りの世界には越え難く深い断絶・境界が生まれる。ブッタ自身も乖離した溝を埋ることも、二度と戻ることもできない。梵天の要請を受けたブッタはこの宿命を甘受し、弟子たちはこれを背負い続けることになる。

それでもブッダ自身の悟りに近づこうと、ブッタの神秘的な悟りを目指そうとする。しかし同質の体験を得ることはできない。その代わりに、非言語から言語に移行する溝が持つ両者の価値を別ける分断線として境界・結界性を、非言語と言語の静止的な対立構造に置き換える。その対立構造は、一方の価値を認め、対立する他方の価値を排除するのではなく、また両者を超越した所に悟りを設定するのではい。

対立した二つの価値を分断する境界線の中間領域こそが相互の価値を保有する。この対立する両者の中間的位置に未分離の悟り状態を求める。

境界は両者の対立を狭めようとすると、限りなく無限小に近づく。その決して交わることのない無限小の世界に未分離の世界を想定する。二つの価値が交わり接するのではなく、相異なる二つの価値が混沌として融合し、その極限の象徴として「一点」に集約される場所となる。凝縮された「1」である。この「1」が、ブッタの原体験の非言語と言語の未分離の悟りを象徴する。結界としての中間領域の「1」に、ブッタの悟りと共通した類似性を見る。

ブッタの弟子たちの悟りとは、この「1」を体得することである。登り詰める最高到達地点であるが、対立する二つの価値を超越する純粋の「1」の意味ではなく、対立する二つの価値が胚胎している「1」で意味ある。この「1」の根底に、陰陽未分の太極である根源的意味と同様の考えがある。相反する価値は対置共存する。一方が他を排斥するならば、分別が働き「空」の原理に反することになる。

しかし、ブッタが非言語の悟りから言語の悟りへと転換したように、「1」に地点に永続して共存することは出来ず、最高地点に到着と同時に、一瞬にして二つに分離される。「空」の対象化(空への執着)を避けるために立ち止まることは許されず、「1」から離れ、ブッタと同じように弟子達も慈悲の行を実践する。

『従容録』「達磨廓然」の達磨と武帝の問答において、達磨を優位に、武帝を劣位に置く禅家の提唱が多く、その薫陶を受けて同趣の考えを持つ禅僧も多い。

達磨・武帝は「聖・俗」という価値が相反しながら、その頂点を極めた聖人で、「1」の未分離の状態に中に対等に存在している。武帝は達磨に素性を問うが、達磨は明らかにしない。武帝は「聖・俗」未分離の状態から分離の状態にしようとする誘いを固辞する。武帝は、「1」の悟りの内容を理解しているか否か、達磨の力量を試したいのである。武帝は、「帝不契」と答え、問うことを諦める。聖人同志の問答に勝敗はない。

「1」という頂点で、相矛盾する二人が同時存在することは不可能となり、二人は「1」の位から去り、武帝は皇帝として人々のために、達磨は「面壁九年」の仏法による救済ために、二人は慈悲の行を実践する。

ブッタの教えは東南アジアに広まり、幾多の宗派が生まれ、その中に異なる法系が生まれ、多様な仏教が生まれる。そうした中で、ブッダの弟子の祖師・高僧たちは悟りを開くことはない。弟子達にとって大切なことは、断絶を超えるためにブッタの直観的な悟りを追体験することではなく、ブッタの言葉の悟りを引き継いで行くことである。

ブッダの直観の悟りは歴史的事実の完結した一回性という性格を持つ。弟子に引継がれた悟りも一回性として性格を持つが、ブッダの絶対不動の「1」と異なり、幾重・幾筋に細分割されて弟子一人ひとりに引き継がれ連続して行く「1」である。この連続する「1」は、同質・同量の悟りが寸分違わず、器の水が一滴もこぼれることなく弟子の器に移される。<1+1+1+1・・・=1>、この図式のように、「1」が連続して加算されても答えは、増加することなく「1」である。

ブッタの内面に一瞬に起きた神秘体験を一回性の原理でみてきた。ブッタの一回性の原理は、対立する価値の狭間の中間領域に、ブッタの神秘体験が対立未分離の世界に置き換えられて、弟子達の一回性の原理となる。

ブッタの原体験が継続するのではなく、弟子たちの「1」が継続し現在に至り、またこの悟りとしての「1」が未来へと継承されて行くことなる。

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