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【14】未完成な美としての「1」

茶室の庭に落ち葉を置く千利休の逸話がある。

利久は弟子に茶室の庭掃除を命じ、落ち葉が一つもなく掃除を終えた後、落ち葉を散らしたという。落ち葉一つなく完全な掃除も、また落ち葉を散らすことも同じ作為であり、自然体を重んじる茶道に馴染まない。利久は、客人に庵の自然の姿を演出したかったのか。そうではなく、完全な無欠な美ではなく、一部欠けた美の重要性を諭したのである。目的が達成された完全無欠な「1」ではなく、欠けた不完全な「1」を求めた。

対称性を理想美とみなす風潮に反し、利久の茶湯椀は左右対称の均整のとれた美ではない。不規則不揃いの様相を呈する。完成を得ることではなく、一歩身を引いて完成に向けて努力する姿勢の尊さ説く。未熟を自覚して、常に伸びしろを残して置く姿勢である。

東照宮の門柱は逆木である。柱を一本だけ上下逆さに建てる。なぜ、縁起の悪い逆木を立てるのか。大工・棟梁は、建築の眼に見えない箇所に欠落した仕事を残して未完成な建物とするという。目標の達成は、これ以上の大工の技の進歩を望めず、後退するしかなく、技を磨く職人気質にそぐわない。完成は逆に縁起が悪くなり、完成を望まないのである。

お袈裟の裏地に墨で一点を記す「点浄」という作法がある。新しいお袈裟や衣を少し墨で汚す。世俗のお袈裟に対する羨望を断つためと言う説明もある。完成されたものを身に着けるのは、これ以上の成長を望めないことになるので、未完成なままにして置くのである。修行者が悟りを得るのではなく、常に悟りに向う修行途中の自戒の身であることを表す印となる。

こうした現代の「1」の例にホールインワンがある。なぜ、お祝いをするのか。稀な偉業達成の喜びからであるのか。お祝いの出費のため保険を掛けることがある。不慮の災害の認識である。望んでも出来るものでない神技に近い。お祝いによる散財によって欠損を演じさせ、ホールインワンの成果を分配し、目標達成の縁起を回避するのである。宝くじが当選した時は、その福を回りの知人におすそ分けをして、全部一人で取得することはしない。また福が来る縁起を担ぐのである。

部分としての「1」の混入により完成を破壊し、未完成な美を演出する。これが日本的美と言われるものである。

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