奈良時代の古代寺院、飛鳥寺や四天王寺などの中門,塔,金堂,講堂が一直線上に並ぶ。その中の塔は、中門との直前に置かれ、最重要の位置に置かれる。塔は仏舎利が置かれる位置で、塔の建立とは寺院創建という最重要の意味を持つ。その後、塔を中心としてその東・北・西に金堂を配置された。左右対称の寺院配置を二分割する中心線上に置かれている。
時代が下るにつれ,塔の位置が中心から遠ざかり、法隆寺の配置では中門の左右後方に塔と金堂がある。薬師寺では中門の左右に二基の塔が置かれる。さらに門の外に配置されようになる。寺院建立における一直線上に置く塔の特権は奪われ、伽藍の飾り配置になった。
東大寺など寺院の参道に中央線上に灯篭・香炉・真燭を置かれることがある。仏に向い合う直線は、聖なるラインだからである。焼香礼拝する時に導師に会釈するのは、導師が仏と向き合う直線上に踏み込むことが忌避されるからで、礼拝は直線上から少し横に避けて行うしきたりがある。本尊からの直線のラインを横切る時は、会釈して渡るしきたりがある。聖なるラインを踏まないためである。
墓地おいて、石塔は入り口(門)の直線上に置かれる。仏と直線的に向い合うことが、「1」を象徴するあの世的文化であるためである。逆に家相において門から玄関へのアプローチは、直線的にしてはならないとされている。
屋敷の中や家の表の入り口から裏口に通り抜けは忌避される。同様に通り抜けることが、富士山登山で、山梨県側から登り静岡県に下山すること、また逆からの登山が忌避されていることにみられる。
このことについて、『しぐさの民俗学』(P317・318)は次のように説明している。
西海賢二は、山を割ることに関する文献を紹介して次のように述べている。
・文政八年(一八二五)に『隔掻録』には「北口ヲ吉田口ト云、南口ヲ須山口、須走口、
大宮口、村山口云フ、五口各村名ヲ以テ呼ブ也、須走口ハ山上八合目ニ到リ吉田口ト合シ、村山口ハ幾計モ無大宮口ト合ス、故ニ山上ニハ吉田口、大宮口、須山口ノ三口トナレリ、南ヲ表トシ、北ヲ裏トスレトモ」とあり、続けて「南より登りて北へ下り北より登て南へ下るを山を裂といふて忌む」南すなわち駿河国側から登り甲斐側に下山、そして甲斐国側から登り駿河国に下山することを忌むことがあったことが紹介されている。
・幕末の万延元年(一八六〇)の『富士山道知留辺』にも「行者ハ南ニ登リテ北ニ降リ、北ニ登リテ南ニ降ルヲ御山ヲ裂クト称シ、(中略)忌ム事ナリ」とほぼ同内容の「山を割る」ことに関連しての記述が見られる。しかし、文政期のものと万延期いずれも十九世紀の文献には北口と南口を使っての「山を割る」(山を裂く)ということは明確にされているのに須山口・東口に関わっての「山を割る」という文献はほとんど皆無である。
『しぐさの民俗学』(P318・319)では、通り抜ける登山は山を二つに割り、または裂くことが、一つのものを二つに分割することへの不安が内在し、歩いた道筋は境として同じ形のもがひとつの山にできてしまい、行為主体の側からいえば、山を割るのは、「真ん中」という境界性をおびた行為そのもので、異常な事態が発生する危険な状況を意味しているという。
山を通り抜けることは、山を二つに分割する境界線を踏み歩くことが危険視される。それは境界線を踏むことが禁忌とされるからである。結界である敷居や畳の縁を踏むことが禁忌されているのと同じ理由からである。
この通り抜けする山の登り下りの境界線は神の道となり、神仏の世界を象徴する一直線の道と重なる。この世の人間は、あの世的な「一」を象徴するものに触れることはできないため、人は聖なる一直線の道を踏むことは許されず忌避される。
往復する同じ道の登り下りは問題にならない。寺社参拝では往復しても許される。
葬儀での埋葬後の帰り道は変えなければならない。この世を象徴する参拝は同じ道の往復は許され、あの世の葬送儀礼では忌避される。
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