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【12】反復継続する「1」
式次第は、「一 開会の挨拶。一 会長の挨拶・・・」というように、「一」の連続で、「ひとつ」と読む。「一、二、三・・・」と連続しない。 制札などの触書なども、「一 ・・・」「一 ・・・」とあり、同様に五箇条の御誓文も次のように「1」の連続で表記されている。 【五箇条の御誓文】 一 広く会議を興し万機公論に決すべし 一 上下心を一にして盛に経綸を行ふべし 一 官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す 一 旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし 一 智識を世界に求め大に皇基を振起すべし 相撲の取り組みは、取り組みごとに「一番」「一番」と言う。ここでは、「いちばん」と読む。「一番目の取り組み」「二番目の取り組み」とは言わない。「今日の大一番」とは、同じ一番だが特別の盛り上がった相撲のことである。 「1」は、起点・始まり「1」ではない。この「1」は、『老子』の「道は一を生ず。一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」のように、ものごとの根源的意味を持たない。またプロティノスの万物を流出する根源的な「一者」の意味ではない。...
2024年7月6日読了時間: 2分
【13】部分としての「1」
初物(はつもの)の最初の一部を神・仏に供える。収穫した野菜・果物・海産物などの初物、狩猟の獲物の一部、来客の土産の一部を最初に仏壇や神棚に供える。 初穂とは、収穫前の稲穂の一部を抜き取り、神に供える。 「生飯(さば)」という仏教や修験道で見られる食事作法で、食べる前に自分の食事の一部分を少し取り分けて、無縁の精霊に供養する作法である。 『常陸風土記』の行方郡の段に、継体天皇の時代に矢筈氏(やはずのうじ)の麻多智(またち)は新田を開墾するのに、妨害する夜刀の神を山に駆逐し、山と田の境界に杭を立て、人に祟りをしないように社を創建した。この遺風は、開墾した最後の残地の高台に祠を建て、土地の神を鎮め祀る。このように神と人とを住み分け、人は全体の一部分を神の取り分として確保する。寺院の境内地や住居の敷地に鎮守神や屋敷神・祝神を祀り、北西または北東の隅の一部に土地の神の領分として場所を定め、石祠を建てるのも同じ考えである。 全ての物は神と人間の共有で、渾然一体となっていると考え、全部丸ごと収得することは、神仏の領分を犯すことになり、罰を被ることになる。...
2024年7月5日読了時間: 2分


【14】未完成な美としての「1」
茶室の庭に落ち葉を置く千利休の逸話がある。 利久は弟子に茶室の庭掃除を命じ、落ち葉が一つもなく掃除を終えた後、落ち葉を散らしたという。落ち葉一つなく完全な掃除も、また落ち葉を散らすことも同じ作為であり、自然体を重んじる茶道に馴染まない。利久は、客人に庵の自然の姿を演出したかったのか。そうではなく、完全な無欠な美ではなく、一部欠けた美の重要性を諭したのである。目的が達成された完全無欠な「1」ではなく、欠けた不完全な「1」を求めた。 対称性を理想美とみなす風潮に反し、利久の茶湯椀は左右対称の均整のとれた美ではない。不規則不揃いの様相を呈する。完成を得ることではなく、一歩身を引いて完成に向けて努力する姿勢の尊さ説く。未熟を自覚して、常に伸びしろを残して置く姿勢である。 東照宮の門柱は逆木である。柱を一本だけ上下逆さに建てる。なぜ、縁起の悪い逆木を立てるのか。大工・棟梁は、建築の眼に見えない箇所に欠落した仕事を残して未完成な建物とするという。目標の達成は、これ以上の大工の技の進歩を望めず、後退するしかなく、技を磨く職人気質にそぐわない。完成は逆に縁起が悪
2024年7月4日読了時間: 2分
【15】 道としての「1」
道として「一」は、老子の「道徳経』に、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生じる。万物陰を負いて陽を抱き、沖気を以って和を為す」とある「道は一を生じ」の「一」である。 「一」は根源的意味の太極を意味する。陰陽未分の太極である一気から陰陽二気が生ずる。数の流れを見ると、一から分裂して二となる。「二は三を生じ」とは、二の次が三となるのは、1+2+3=6となるのでなく、1+2=3となる。太極一気と陰陽二気を合せて三の意味である。この三が万物誕生を象徴する数字である。 この万物を生成する太極・陰・陽を三極構造としてみると、三極を三角形の三点に配当し、太極を頂点に、その底辺に陰と陽を置いてみる。底辺の陰・陽を両端の二点の中央に均等に歩み寄り集約されて行くと、太極は陰・陽の底辺を垂直に二分した中心線上の頂点に到る。 このように「三」の数の万物を生む呪術的力は、三点の構造を持つ様々な形態に整えて信仰的意味を与えている。山の山名に三山の呼称を与え、神聖な山岳景観を作っている。神仙思想による不老不死の蓬莱山・方丈山・瀛洲山の三山、その例にならう大
2024年7月3日読了時間: 2分
【16】 悟りとしての「1」
ブッダの悟りとしての一回性についてである。 ブッダは35歳の時、インド東部のビハール州にあるブッダガヤの菩提樹のもとで禅定に入って悟りを開いた。仏典によれば、自分一人だけの唯一絶対の悟りを内面に秘めたままにしておくことを望んだ。梵天はブッタ一人の悟りに終わらせることが忍び難く、衆生済度のためからの悟りの布教を依頼するが、再三に渡り断られる。それでも梵天は仏法を説くことを三度懇願する。ブッダはこれを受け容れ布教することになる。最初の説法(初転法輪)は、鹿野苑で五人の修行者に対し仏法を説き、80歳で亡くなるまで人びとの苦しみを救うために慈悲を与え続けきた。 ブッタの悟りは、一回限りの体験である。一回性という神秘的な直観の瞑想体験である。歴史的事実として一回性の意味である。ブッタは同じ神秘的体験によって、再び悟ることはない。また同じ悟りの体験を弟子に求めることはない。仮に悟りを求めるならば、それは悟りの疑似体験であり、ブッタの原体験と異なる。 ブッタは、この非論理的体験を論理的な言葉に置き換えて慈悲の教えを説くことになる。非言語の悟りから言語による悟り
2024年7月2日読了時間: 5分


【17】まとめ
「1」の論理は神仏の領域を示し、あの世的世界とこの世的世界を切り分ける役割を持っている。あの世的精神文化の「1」は民俗儀礼、芸術文化、スポーツ、日常生活など日本文化の隅々まで及んでいる。「1」の持つ精神性は、民俗儀礼における宗教性を高め、芸術文化の美意識を深め、また日常生活の繊細な挨拶、職業気質に影響を与え、欧米文化にはない日本独特の文化と言える。 しかし、「1」の論理性は消えつつも、儀礼的・日常的には全く違和感なく使いこなしているが、その意味が十分理解されているとは言い難い。その結果、「1」の論理に無理解な「都民ファースト」の言葉が乱舞し、スポーツの試合で「日本ファースト」の応援の言葉がキャスターから出るまでになる。欧米論理が優先される「1」となる。完全無欠を目標とする「1」である。日本の論理は優劣を競わせる「1」ではない。 新たに再考する機会になれば幸いである。 九輪草(クリンソウ) (了)
2024年7月1日読了時間: 1分


【2】こだわりの八ヶ岳の神々
八ヶ岳の中心は権現岳であり、二つに裂かれた巨石が御神体であることを前回述べた。 権現岳に八ヶ岳の祭神は、磐(いわ)長(なが)姫(ひめの)命(みこと)と八(やくさの)雷神(いかづちのかみ)である。『古事記』『日本書記』に神話に見られる神々である。なぜこの二つの神が祀られたのか。それは、二つに裂かれた巨石の姿こそ二つの神を象徴するものであった。神々の起こりは、八ヶ岳南麓の最初に定住した古代人の巨石の出会いから始まる。人々はどのような気持ちで巨石を感じたのか。その姿の神秘性と驚きから神の存在を感じ、二つに裂かれた巨石は神のなせる技であると信じられた。どのようにしてこの頂上に出現したのか。巨石の姿の由来を尋ねようと考えた。 古代人の謎解きである。権現岳山頂の巨石は、大地の中から生まれ出て来た。母なる大地から生命を生み出す力を宿す神の姿を想像した。狩猟・採集の豊穣・多産をもたらす山の神として巨石に対する信仰が生まれた。この磐石堅固な巨石のように永遠の生命を司る磐(いわ)長(なが)姫(ひめの)命(みこと)の神にたとえられ、権現岳の祭神の一つとなった。二つに裂
2023年7月16日読了時間: 2分
【3】こだわりの雷(蛇)信仰
前回において、火の神によってイザナミ命の〈陰=ほと〉を焼かれて亡くなり、夫のイザナギ命が黄泉の国を訪れた時に見た妻イザナミ命の体に取り付いた八つの雷の姿が八雷神(やくさのいかづちのかみ)であることを述べた。この八雷神が八ヶ岳の祭神の一つに加えられた理由は、天空から落ちてきた弓矢によって二つに裂かれたと想像されるV字形の巨石の姿が、大地の母なる神の〈陰=ほと〉に弓矢が当たったイメージと重なるためである。 落ちてくる弓矢は、落雷のイメージにつながって行く。雷は雨を降らせ、稲光を発します。ギザギザに蛇行する姿は、蛇を連想する。八雷神は死者を守る神である同時に蛇神ともされる。 八雷神は蛇神として、雨乞いの神(水神信仰)として信仰されて行く。三ッ頭の山名は、三頭の牛や馬の頭を雨乞いのために権現岳に供えた形に由来する。牛首の奉納は、牛を殺して漢神(からかみ=渡来の神)に供える雨乞いの儀礼である。清里から赤岳へ登る真鏡寺尾根の牛首山も雨乞いに由来する山名である。 猟師が白蛇を助けると、そのお礼で湧水が湧き出るという伝承が南麓一帯にある。小渕沢町の大滝神社湧水・
2023年7月15日読了時間: 2分
【4】こだわりの小淵沢の歴史
小淵沢村の誕生 小淵沢町に最初に鍬おろした人々は、二つの地域を形成していた。この二つの地域は、矢の堂―大宮神社の縦状の尾根(尾根地区の地名の由来)である分水嶺の地形によって東西に分けられている。ひとつは、井詰(いづめ)湧水(すずらん池の北側)から自然流下した甲信アルミ南一帯の流域を開発した地域で、もうひとつは、根山湧水(花パークの北側)から自然流下した川は小淵沢小学校西側に流れ、その流域一帯を開発した地域である。 ところが、「正中元年(1324)水源地ヨリ水田灌溝口堀リ 元野之高嶺中央ヲ割り水路ヲ通ス(中略)赤松家蔵ム書中ニ見エタリ」とあり、この井詰用水の横堰の開削が行われ、旧小淵沢全域に水田用水が行き渡った。この横堰を通称、「五百石堰」とも言われる。 自然流化の自然集落から横堰の水路によって結ばれた村作りが始められた。尾根区内に「じょうしょう村」「ごんだい村」の地名が慶長検地帳に見えて、少なくとも室町時代には散在していた村があり、鎌倉時代においても湧水の自然流下する水域に、こうした小集落の村が多く散在していたと思われる。東西に二分されていた地域
2023年7月14日読了時間: 3分
【5】こだわりの北野天神社の歴史
小井詰氏の伝承 前回、小井詰氏は、北野天神社の神主であると同時に、小淵沢村の開発領主的な存在として井詰湧水の水利権を通じて地域に政治的影響力を行使してきたことを述べてきた。今回、小井詰氏の伝承を通じて、その姿を考えてみたい。 その伝承のすべてに共通しているのは、漂泊・逃亡して、この地に隠棲するという伝承である。 伝承一 平忠常を平定した源頼信が甲斐国に退在し、永承年中(一〇四六~一〇五三)この地に隠住、安元二年(一一七六)泉原に移り、姓を小井詰と称したという。 伝承二 泉親衡(いずみちかひら)は、建暦三年(一二一三年)鎌倉幕府御家人で信濃源氏の泉小次郎親衡が源頼家の遺児千寿丸を鎌倉殿に擁立し執権北条義時を打倒しようとしたが失敗し、逃亡行方不明となる。親衡は北野神社に隠棲、神主の跡目を継ぐという伝承がある。 伝承三 小笠原分流十三世・吉基は、入贅(にゅうせい)(入婿)し神主になる。初祖小笠原長清より十三世に該当する者に松尾小笠原(伊那)の小笠原宗基が存在する。宗基は戦に敗れ、永正三年(一五〇六)、行方不明となる。宗基と吉基は、「宗」と「吉」の一字が
2023年7月13日読了時間: 3分
【6】こだわりの「小淵沢」の地名について(一)
小淵沢の地名は、「小淵池」に由来する伝承がある。 小淵池は、小淵沢町総合グランド駐車場北の杉木立の場所にある。直径5~6メートル程の小さな池で、流れ出る川はなく、一年中水量は一定している。 小淵池は、実用性より宗教性の重視した場所といえる。そのために雨乞い祈願が行われたり、椀貸伝承(注1)がある。また、諏訪湖の水が増減すると小淵池も同じように変化するという、諏訪湖と小淵池が地下水でつながっている通底伝承もある。東大寺のお水取りの水は若狭国から地底を通じているというように、全国的に見られるこの伝承は不老長寿の常世の国に通じる信仰が背景にある。地底から湧き出る水は常世の国からもたらされる不老長寿の若水と思われ、また椀貸伝承のようにこの世に様々な福をもたらされるという。 このように池(井)は神秘的な場所とされ、水の祭祀をする神聖な場所であった。789年、甲斐国の渡来者は玉井・大井・中井などに改姓している。「井」の字を使ったのは、「井」の持つ聖なる水の呪力を姓名に注ぐためとみられる。韮崎市藤井町にある「駒井」の地名も渡来系に由来するとされ、また「藤井」の
2023年7月12日読了時間: 3分


【7】こだわりの「小淵沢」の地名について(二)
小渕沢の地名の由来を小淵沢町の南端である富士見町の県堺・国界橋付近から長坂町境までに「加倉」「河倉」「鹿倉」の地名から考えてみる。 その名称は違うが、その呼称は「カクラ」と言われ、意味は「狩倉(かりくら)」のことである。同一の地名が約五㎞程続くという長い地名である。「カクラ...
2023年7月11日読了時間: 2分
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