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【4】江戸時代の八ヶ岳

  • koufukujihokutoshi
  • 2025年12月31日
  • 読了時間: 7分

(1)甲斐國の八ヶ岳

一つの八ヶ岳の継続

八ヶ岳について、『甲斐叢記』(巻之七)(抜粋)に次のようにある。


檜峰権現岳トモ云、小岳、三頭岳、赤岳、箕蒙岳、毛無岳、風三郎岳、編笠岳等八稜ニ分ルゝユエニ此名アリ 檜岳ニハ石長姫八雷神ヲ配祀シ八ヶ岳権現ト云ウ

 「檜峰権現岳トモ云」とあることから、檜峰が権現岳である。権現とは八ヶ岳権現であり、檜峰が八ヶ岳である。檜峰=権現岳=八ヶ岳は一体のものである。赤岳は毛無岳のことでもあり、八つの山の選定は不確定なものであるが、山名は八つの山が列記されている。

 甲斐国の『甲斐叢記』の八ヶ岳で説明されるように、江戸時代において、甲斐国側では権現岳を中心に赤岳、硫黄岳(箕蒙岳)までも含む範囲が八ヶ岳であるとされている。

 赤岳は、権現を中心とする「一つの八ヶ岳」に包摂されている。こうした地誌観は、すでに中世以来甲斐国と信州側が共通に持っていた八ヶ岳の姿である。その姿には、諏訪側も甲斐国側も八つの峰を以って「八ヶ岳」とする共通の山岳観が見られる。

『甲斐叢記』(巻之七)に次のようにある。


麓の諸村より三里余秋分の頃までは参拝することを禁む岳の中腹に前宮あり此所まで平日に参詣者多し祭日は三月十一日なり

 その記載の通り、『西井出村外十二カ村入会絵図』に「八ヶ嶽前宮社」(大泉町天女山西側)が表記されている。

西井出村外十二カ村入会絵図
西井出村外十二カ村入会絵図

八ヶ岳権現(檜峰)を山宮に、里宮とした「八ヶ嶽前宮社」に置かれていたことから分かるように、八ヶ岳南麓には山岳信仰の基本的形態が整えられている。

 北杜市高根町樫山地区に、八ヶ岳権現社、日吉神社、風の三郎社の三社があり、三社祭りが行われている。三つ合わせて、一つの御神体の意味である。浅草三社祭りと同じである。

 八ヶ岳権現社・日吉神社・風の三郎社は独立した石祠によって祀られているが、三社一体の意味から権現岳・檜峰信仰に由来する。風の三郎社も、風の神として風の三郎ヶ岳に直結する。八ヶ岳権現社は水の神として権現岳に、日吉神社は晴天の神として檜峰に対応する。



八ヶ岳権現社
八ヶ岳権現社
日吉神社
日吉神社
風の三郎社
風の三郎社

(2)信濃國の八ヶ岳

 二つの八ヶ岳の誕生

『信府統記』(信濃史料叢書第五巻P78)に、次のようにある。

  

八ヶ岳嶺通国堺 甲斐ニテモ同名 平沢村出口道ノ境川ヨリ西ノ方ニ当ル、金峰山ヨリハ酉戌ノ方ニ当ル、此八ヶ岳当国ノ方北面ノ半ヨリ佐久郡西は諏訪郡ナリ
右甲州境八ヶ岳ノ峯ヨリ遙ニ亥子ノ方当レリ処ニモ、又八ヶ岳ト云山アリ 此峰モ又八ツアルカ故ニ尓云フ

 

信州側から見た八ヶ岳であり、甲斐に同名の八ヶ岳があるという。同様に、権現岳の「八ヶ岳」と赤岳の「八ヶ岳」の地名の記載が『信濃国絵図』にある。『信府統記』の記載と『信濃国絵図』は同じ内容である。

『正保の信濃絵図』正保四年(1647)に赤岳の「八ヶ岳」の一箇所、『元禄の信濃絵図』元禄十四年(1701)と『天保の信濃国絵図』天保九年(1838)には、権現岳の「八ヶ岳」と赤岳の「八ヶ岳」の二箇所が記載されている。

 『信濃絵図』は、江戸幕府に提出したもので、全国規模で徴収したのは正保年間でした。その後元禄年間と天保年間に改訂されたものです。

 『正保、元禄絵図』は一枚仕立てで、『天保絵図』は収納し易くするために短冊形に切断されている。

 なぜ信州側で二つの八ヶ岳の表記を認めているのだろうか。明確なところは分からない。

 ただ鎌倉・室町期に薙鎌を奉納したのは、権現岳の「八ヶ岳」である。この時は、赤岳の「八ヶ岳」は存在しなかったと思われる。薙鎌奉納が途絶えてゆくと、権現岳の「八ヶ岳」

の関係性は薄れてゆく。しかし、権現岳の「八ヶ岳」は信仰的には諏訪側の山でもあり、「八ヶ岳」の存在が消え去ったのではない。

 『正保の信濃絵図』正保四年(1647)に赤岳の「八ヶ岳」と記載があることは、恐らく室町時代には赤岳付近を「八ヶ岳」と呼称していたと思われる。江戸時代においても、諏訪側は、甲斐国と同様に権現岳と赤岳を含む広域化された「一つの八ヶ岳」とする地誌観を引き継がれていたと見られる。

 先に述べた「八つの峰々が存在する八ヶ岳である」とする考えである。八の峰はそれぞれが独立した山名を持ち、独自の信仰・文化を持ちながらも、同様に「八ヶ岳も存在する」意味である。全体と部分の関係で、「全体=部分」と見做すのである。全体が八ヶ岳であり、部分(赤岳)も八ヶ岳であるとする。

 『信濃国絵図』の二つの八ヶ岳の記載は、権現岳の「八ヶ岳」から赤岳「八ヶ岳」は分割あるいは創設されて、「二つの八ヶ岳」になったのではなく、赤岳も八ヶ岳であると同一視されるのである。「一つの八ヶ岳」の中の二つの同一の表記であるとすれば、信濃國に「二つの八ヶ岳」があっても矛盾することなく併存していたものと思われる。

『正保の信濃絵図』正保四年(1647)(上田市マルチメディア情報センター所蔵)
『正保の信濃絵図』正保四年(1647)(上田市マルチメディア情報センター所蔵)
正保絵図 拡大図
正保絵図 拡大図
『元禄の信濃絵図』元禄十四年(1701) (上田市マルチメディア情報センター所蔵)
『元禄の信濃絵図』元禄十四年(1701) (上田市マルチメディア情報センター所蔵)


元禄絵図拡大図
元禄絵図拡大図
『天保の信濃国絵図』天保九年(1838) (上田市マルチメディア情報センター所蔵)
『天保の信濃国絵図』天保九年(1838) (上田市マルチメディア情報センター所蔵)
元禄絵図拡大図
元禄絵図拡大図

富士見町側の八ヶ岳

 江戸時代、宝暦6年(1756)高島藩士の書いた『諏訪かのこ』という書物に、「八簡山・八岐山・・・地蔵ヶ岳、虚空蔵ヶ岳磨磐山トモ云、擬宝殊ヶ岳、薬師岳、権現岳、阿弥陀ヶ岳、編笠ヶ岳。中ニモ至リテ高シ斎河原ヶ岳」にある。

 諏訪側にあっても、富士見側は赤岳ではなく、権現岳の「八ヶ岳」を軸とする信仰領域が形成されている。山名を見ると、権現岳、薬師岳、阿弥陀岳、編笠山、斎の河原岳(西岳)、地蔵岳、虚空蔵岳、擬宝石岳の八つ山を明記する。特徴的なのは、地蔵岳、虚空蔵岳を上げている。富士見側からのみ列記される山名は、「諏訪かのこ」が列記する八ヶ岳と同じである。

富士見町乙事村の『八ヶ岳の絵図』の写し
富士見町乙事村の『八ヶ岳の絵図』の写し

 富士見町側の特徴は、八つの峰々が明確に列記されていることである。とくに この地蔵岳と虚空蔵岳は、他の八ヶ岳には挙げられていないのが特徴である。

 この地蔵岳と虚空蔵岳を軸に富士見側の信仰の世界を見ていくと、死者供養のための巡礼登拝の信仰の姿を見ることができる。その見方から、極楽往生する信仰に関わる儀礼過程が地名や関係する事象に見られる。

その順を追って儀礼を見ていく。


 最初に「盃流し」の地名から始まる。清浄なる山に修行に入るために、水盃を飲み、その盃を川に流すのは、世俗を断つために「別れの盃」の意味である。死者の世界に入るための結界儀礼であり、修行に入る入門儀礼である。葬儀に行う「別れの盃」と同じある。しかし、「盃流し」を平安時代の「曲水の宴」の場所に仮定し、この山中に雅の世界を演出された所であるとい詳しくは、次の項で説明する。

権現岳と小屋
権現岳と小屋

 この「盃流し」の近くに「不動清水」の場所があり、不動尊が祀られている。初七日の守護本尊の不動尊であり、ここから死者供養の儀礼が始まる。編笠岳は、行者または死者の姿である。編笠岳の北斜面の巨石群は賽の河原を模した形状である。行者の河原岳(西岳)を登るのは、賽の河原を渡る意味である。


 この賽の河原を渡り、地蔵岳に登る。五七日の守護本尊は地蔵尊である。権現岳の小屋が見える。

胎内くぐり
胎内くぐり

左のハイマツの間の一筋の道を歩み、胎内くぐりを通り抜け、ここから薬師岳(権現岳)に登り至る。一周忌の守護本尊のお参りをする。阿弥陀岳に戻る。三回忌の守護本尊である。極楽往生する世界に見立てる。ここから下り虚空蔵岳に至る。年回法要の最後の三十三回忌である、守護本尊は虚空蔵菩薩である。             

       


 順路をまとめて見ると、盃流し→不動清水→編笠岳(行者・死者の姿)→地蔵岳→胎内くぐり→薬師岳(権現岳)→阿弥陀岳→虚空蔵岳となる。

 このように赤岳を含まず、権現岳を中心にした八ヶ岳の信仰領域である。富士見町側からの八つ峰々は、登拝する順序に従い、祖先崇拝を軸にした信仰的世界が規則性を持って体系化した形で整えられている。

 写真中央に見える鳥居形の印が二箇所見える。神社の鳥居ではない。ここから仏の世界に入る結界である妙覚門と等覚門の二門の意味であろう。

 参考までに、次に年回供養における十三仏信仰の守護本尊を記しておく。

初七日初願忌不動明王、二七日以芳忌釈迦如来、三七日洒水忌文殊菩薩、四七日阿経忌普賢菩薩 小練忌地蔵菩薩、六七日檀弘忌弥勒菩薩、七七日大練忌薬師如来、百ヵ日観音菩薩、一周忌勢至菩薩、三回忌阿弥陀如来、七回忌阿閦如来、十三回忌大日如来、三十三回忌虚空蔵菩薩。

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