【3】鎌倉・室町時代
- koufukujihokutoshi
- 2025年12月31日
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一つの八ヶ岳の誕生
鎌倉・室町時代に本地垂迹の思想が生まれ、神々は、インドの仏菩薩(本地)が化身として日本の地に現れた権現(垂迹)であるとする考えである。
笛吹市御坂町の「檜峰神社」は薬王権現と称し、八ヶ岳の「檜峰神社」は薬師権現と称する。本地仏は同じで薬師如来であり、「権現」の名称が付される。この薬師権現の「権現」が、現在の「権現岳」の山名となる。
本地垂迹の思想により、平安時代の檜峰の山名は、鎌倉・室町時代に権現岳に変わっていく。薬師権現が八ヶ岳権現と別称されるようにもなる。この時、「八ヶ岳」の山名が誕生する。
八ヶ岳権現は八雷神の本地仏であり、八雷神を祀る権現岳の名称を「八ヶ岳」としたもの
で、一つの山の名称である。八ヶ岳権現の「八」は、八雷神の「八」に由来であることが分かる。八雷神を祀る権現岳こそが「八ヶ岳」であり、それ以外は八ヶ岳ではない。
『信濃国立科山略伝記』には、「立科の東南にならいたてり 八柱の雷公神嶺々に鎮座する」とある。この地誌観は、立科山は八ヶ岳に含まれない、外からの認識である。八柱の雷が嶺々に鎮座する「嶺々」は八の峰々(八ヶ岳)と見られ、権現岳(檜峰神社)の「八雷神信仰の世界」と伝えている。八雷神と八ヶ岳の「八」は同一の意味とする考えに符合することになる。
その後、八ヶ岳は権現岳・八雷神の世界から離れ、八つの峰をもって八ヶ岳を説明するようになる。「一つの八ヶ岳」の誕生である。一点の場所の八ヶ岳から八つの峰々を総称する八ヶ岳へと変化する。八ヶ岳の山名の意味が一気に変質して行くことになる。地名には歴史・文化・信仰などが刻まれるのであるが、そのような地名観から背離し、宙に浮く実体のない八ヶ岳となってしまった。
ただ単に、八つの峰が集合して「八ヶ岳」となるだけでなく、「八つの峰々が存在する八ヶ岳である」と認識するようになる。八の峰々と八ヶ岳を同一視し、八つ峰も、八ヶ岳も、同時存在すると思い込み、八ヶ岳という山が存在しないのに存在しているかのようになった。山名だけが存在するのである。何百年間続いてきた錯覚である。今もなお誰もそれに気が付いてはいないように思われる。
諏訪信仰と檜峰神社
檜峰神社の石祠から薙鎌と北宋銭が出土され、その出土状況から室町期頃と推定される。
諏訪(小坂)円忠が著した『諏方大明神画詞』に、「四維ノ御柱ハ、四王擁護ノシルシ、九隠薙鎌衆魔催伏ノ利剣ナリ」とある。薙鎌は諏訪信仰を象徴として極めて重要な呪具である。国境の鎮護・悪霊封じる呪術の役割を持っている。権現岳は、信濃國とって甲斐国、佐久郡と接する境界であり、薙鎌は諏訪側から奉納されたものであり、とくに薙鎌奉納は風を鎮めるための奉納である。

権現岳は風神を封じる所であり、「風の三郎ヶ岳」の山名は風を鎮める信仰によるものと考えられる。諏訪側も権現岳に信仰的に深い関わりを持っていたことが伺われる。「風の三郎ヶ岳」の呼称は、諏訪側からの風を鎮める信仰の影響によるものと思われる。権現岳・檜峰・薬師岳・風三郎岳は、同一の場所から派生した山名である。
下社の神事に、御柱の前年、越後国境の安曇郡小谷村の諏訪神社に薙鎌を奉納し、神事の祝詞に「七年一度の国境見として御標の利鎌に宇豆の幣帛執そえて・・・」とある。薙鎌(四個)、鉄剣(二振)、原型不明の破損されたもの(三個)、古鏡(井戸尻博物館所蔵)が檜峰神社に奉納されていた。七年に一度の奉納だと考えれば、期間は明確ではないが、檜峰神社の奉納物が合わせて10個、一年に一個の奉納とすれば、檜峰神社を登拝し薙鎌(井戸尻考古館所蔵)など70年間ほど奉納し続けたことになる。
権現岳は、諏訪神社の神領に準じた扱いをしていた可能性があり、諏訪側にとっても重要な信仰の山として、「八ヶ岳」の呼称は定着されていたことになる。
そのことを示す、諏訪側と八ヶ岳を結び付ける指摘がある。
それは、『諏訪信仰史』(金井典美著)から引用する、「陬波御記文」全海本に「此の蜜会を三斎山と名く。此の山は霊鷲山の艮より生ぜり。当に慈尊の法華を該たまえるの地なり。故に普賢身変山と名く。」(一部抜粋・P一六四)の記述にある。
『諏訪信仰史』「考察」(P一六九)の中で次のように記されている。
しかしながら御射山というのは元来地名であって、そうした名の山があるわけではあく、文中にみえる霊鷲山は八ヶ岳とおもわれ、少なくとも中世には上社の神体山あるいは遙拝山とみなされていたのであろう。その八ヶ岳の山神を祀る場が御射山で、とくにそこを祭場としたものとおもわれる。下社でいえば、霧ヶ峰が神体山であり、旧御射山の盆地がその神霊を祀る祭場であったとおもわれる。
御射山は霊鷲山である艮(丑寅・北東)から生じるとある。八ヶ岳の記述は見られないが、艮の方位にある霊鷲山が八ヶ岳であるとする。神体山または遙拝山であるとする。慈尊(釈尊)が霊鷲山(八ヶ岳)で法華経を説く地であるとする。
中世における御射山と八ヶ岳の関係を述べている。「陬波御記文」は、仮定した信仰的世界を述べた物語ではないと思われる。その信仰の足跡を檜峰神社(権現岳)から出土した薙鎌などが諏訪側と八ヶ岳権現(檜峰)の関係を示しているからである。富士見町考古学者、故平出一治氏より小林公明氏(元井戸尻考古館長)が、旧御射山付近の華表原(とりいはら)から八ヶ岳を遙拝したという伝承の存在を語り聞いている。上社御射山祭の8月末頃の日の出は、権現岳付近から太陽が昇ることを確かめることが出来る。
以上のことから、遙拝したのは漠然とした八ヶ岳ではなく、遙拝は薙鎌を奉納した権現岳に向けられている。上社御射山と権現岳の関係を結ぶ信仰軸を見ることができる。
甲斐国と諏訪側にとっての八ヶ岳とは、権現岳を中心とする「一つの八ヶ岳」であって、共有する地誌観を持っていたと思われる。


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