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【5】明治時代の八ヶ岳

  • koufukujihokutoshi
  • 2025年12月31日
  • 読了時間: 1分

権現岳の「一つの八ヶ岳」

『信濃地理』「信濃國全図」(明治29年)
『信濃地理』「信濃國全図」(明治29年)

 長野県側において、江戸時代を通じて作成された『信濃絵図』の「二つの八ヶ岳」の記載は、「ひとつの八ヶ岳」に表記されることになる。








『長野県編纂 信濃國地誌略上巻』(明治十三年)に、次のように「赤岳」と「八ヶ岳」は、別々の山として説明されている。


八ヶ嶽ハ本郷境ノ両村面起シ、山脈西ハ大門嶺及ビ蓼科山ニ連亘シ、東ハ金峰山ニ接シ、攅峰八起ス、因テ此称アリ赤嶽山ハ玉川村ニ面起シ、阿弥陀嶽ノ背ニ峙チ、山脈南ニ八ヶ嶽」ニ連ナリ、北ハ蓼科山ニ走ル、(以下略)

 明治時代の長野県の地理の教科書である『信濃国地誌略』の絵図には、赤岳の「八ヶ岳」は消失して、「赤岳」とだけ表記し、権現岳に「八ヶ岳」と表記している。

「八ヶ嶽」の記載の地図     (明治20年の「陸地測量部」)
「八ヶ嶽」の記載の地図     (明治20年の「陸地測量部」)

「赤岳」と「八ヶ岳」は、別々の独立した山として説明されている。長野県側において、江戸時代を通じて作成された『信濃絵図』の「二つの八ヶ岳」とは異なる認識に立っている。

 明治20年「大日本帝国陸地測量部」作成の『甲府』の地図の「八ヶ岳」の記載は、権現岳の標高(2762)を示す位置にある。権現岳の「一つの八ヶ岳」に統一さ

れる。

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