【6】大正時代以降の八ヶ岳
- koufukujihokutoshi
- 2025年12月31日
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赤岳付近の「八ヶ岳」
明治時代に入ると、赤岳の「八ヶ岳」の記載は消え、赤岳と八ヶ岳は併記されるようになる。しかし、大正5年『大日本帝国陸地測量部』(縮尺二十万分一)では、赤岳の「八ヶ岳」付近に記載されている。現在の『国土地理院』の地図も同様である。
明治時代から大正期に入ると、「八ヶ岳」の中心が権現岳より赤岳に移っていく。八ヶ岳の地名の広域化が図られ、その中心に八ヶ岳の主峰「赤岳」を置く地誌観に基づくものと見られる。権現岳の「八ヶ岳」から赤岳の「八ヶ岳」に表記が変更されている。

犬養毅と八ヶ岳
犬養毅は富士見町に深い機縁を持つ。大正13年富士見町に「白林山荘」と建てる。大正14年8月30日に乙事山岳会の案内で小川平吉と共に、「盃流し」に登る。犬飼は、「盃流し」の景観に酔いしれた。平安時代の貴族によって行われた盃を流す「曲水」の宴が存在した場所、あるいは存在したような場所とイメージをした。犬飼は、その存在の証に「曲水」、犬飼に共鳴した小川平吉は「神仙秘境」と石碑に揮毫した。村民は嬉々として迎えた。平成30年9月、台風24号による土石流で流され、その3年後下流にて発見されている。
「盃流し」は、狩猟用語として「オトシ」と呼ばれていた場所である。「オトシ」とは「落とし」の意味で、獲物を崖から追い落す、わなをかけて穴に落とすことである。この場所は、鹿を追い落す場所であったのであろう。わなを仕掛かけることを、「オッソ」をかけると言う。小淵沢町上笹尾の小字に「御側」(おっそ)の地名がある。





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