【7】昭和時代の八ヶ岳
- koufukujihokutoshi
- 2025年12月31日
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多数の山々の「八ヶ岳」
昭和10年頃まで八ヶ岳の10ヶ所ほどの山頂に中野区の地恩報恩会講が法華経の写経の納経をしたという。その一つを三ツ頭岳で小淵沢町の故宮沢源治氏が発見した昭和3年の納経箱が井尻考古館に所蔵されている。西天狗・峰の松・硫黄岳・阿弥陀岳・西岳などに題目塔が見られる。納経場所に題目塔を建てたのであろう。その様子を八ヶ岳納経登山記念写真集帳(三分の一湧水館蔵)が伝えている。
法華経の納経や題目塔の建立が行われたのは、「普賢菩薩発品」にある、『法華経』を書写する人は忉利天への往生も説く教えからである。忉利天は六欲天の第二にあり、須弥山の頂に位置し、閻浮提 の上にある天界で、中央の喜見城に帝釈天が住み、四方の峰に八天があるので、三十三天ともいう。
権現岳(忉利)、三ツ頭(刀利大権現・谷戸講中)、地蔵の頭(赤岳山忉利天宮・中道村講中)、阿弥陀岳(忉利・明治27年)などの忉利天の石碑があり、カッコ内はその刻銘である。赤岳・権現岳の山麓一帯に、八ヶ岳全体を須弥山に例えた忉利天信仰が浸透していた。


主峰赤岳付近に「八ヶ岳」と表記されるようになると、赤岳は多数の山々の中心的シンボルとなっていく。「八ヶ岳」の地名の由来を「八百万神」「八百八町」の「八」に付会して、多数の山々の意味が巷間で語られる。多数の連山の山系であることから八ヶ岳連峰の名称が作られ、それを二つ分ける南・北八ヶ岳の名称も登場する。
歴史・信仰・文化の実態から離れて、美称化された八ヶ岳の名称が広まり、公共建物、観光施設、文化グループ、文芸作品などの名称のネイミングに使われ、このように八ヶ岳の名称は多種多様に愛称されるようになった。

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